福田恆存が観た日本の近代。
皆さん、今晩わ。
新しく、ブログを始めてみました。
主題は、藝術、文藝、文明論など。
第1回目は、福田恆存が観た近代。
まず、福田恆存って誰?という方に、簡単な紹介を…。
福田恆存 1912-1994 文藝批評家
主な著作に
「人間この劇的なるもの」
「藝術とは何か」
その他、シェイクスピアの翻訳家としても知られています。
大正から平成まで生きた福田恆存ですが、氏が観た日本は一体どんな風景だったのでしょうか?
氏の遺した「日本および日本人」、「日本人の思想的態度」、この二つの随筆を手がかりにしたいと思います。
「日本および日本人」」「日本人の思想的態度」、どちらも日本人と、西洋人の生き方の違いについて語っているのですが、何故この差異が重要なのか。
それは明治に入ってから、日本人は西洋人の生き方の背後にある文化を観ずに、ただ上っ面の文明のみを輸入してきたが、それが日本人を生きづらくしているんじゃないか?という問いがあったからです。
端的に言うと、明治以来日本人は西洋近代をそのまま西洋全体として捉えてそれを受容したが、それを道具として上手く使いこなせていますか?という話しです。
こうした問いに対してある人は言うでしょう。
明治に入って日本人はちゃんと近代化の波に乗り、日清、日露戦争には勝ち、世界の一等国として認められた。残念ながら、太平洋戦争には負けたが、戦後の焼け野原から、高度成長期を経て、又もや世界に恥じない国に成長したと。
確かにその人から見れば、それが明治以来の日本及び日本人の物語なのでしょう。が福田恆存が重きを置いたのは、世界の一等国にならないと西洋に負けると思い、必死に近代化をやってのけたはいいものの、基準を西洋においていては、結局いつまで経っても、日本及び日本人は、西洋に振り回されるだけですよ、それでいいの?という点です。
つまり西洋に勝った!負けた!と、一喜一憂している時点で、基準が西洋ですから、いつまでも落ち着きのない生活を送らなければならなくなる。
明治以前の日本人の生き方を、片端からやっつけて、なんでも西洋流にしてしまうのは、如何なものか。
氏はここに、二つの日本人の生き方が出来たと言います。
上手く時流に乗れたと思い込んでいる人間と、それに乗れない人間。
そして、時流に乗れた人間は時流に乗れない人間を馬鹿にして、馬鹿にされた方は、ますます自信を失っていく。そして、適応異常を起こすわけです。
明治に限らず、現代もそうですよね。親は職人や農業をさせるより、大学に行かせたがる。東大とか最近では、海外の大学でしょうか? とりあえず、大卒の方が進歩的で、職人や農民は遅れていると信じている。
が、氏はこう問います。
自分を進歩的な人間と思っている人間は、果たして西洋の基準から逃れているのか?否、結局、基準が自分の生き方から出てくるものじゃなくて、西洋もしくは、アメリカになっているんじゃないのか?
例えば、民主主義は大事だ!と思っている人に、では、民主主義は何故大事なの?と問いかけてみなさい。自信を持って答えらる人がどれだけいるか。といった具合に、兎も角、日本は遅れていると信じこんで自他の区別なく、西洋、(戦後はアメリカ)を無批判に取り入れることは辞めようよと言うわけです。
事実、氏の文章はより深い洞察、批判がなされています。また、西洋人の生き方の根幹にある、キリスト教についても書かれています。また、明治の日本人が、西洋近代を、西洋全体と思いこんだことも、仕方のないことだと、書いています。
が、明治以来かれこれ、約150年経っているわけです。そろそろ、落ち着いて過去を振り返って、足元を確認しても良い時期に来ているんじゃないでしょうか?
自身が伝えられることに限界があるので、興味を持たれた方は是非、福田恆存の遺した文章を読んでみて下さい。
ではでは^-^