福田恆存と演劇
皆さん今晩わ。
第2回目のテーマは、
「福田恆存と演劇」です。
福田恆存と言えば、シェイクスピアの翻訳を仕事にした事で有名です。
自ら劇団を立ち上げ、現在でも「劇団昴」として存続しています。
今回は氏の著書、「私の演劇教室」の中から、考えるヒントを見つけていきましょう。
氏が、シェイクスピアの翻訳をし始めた動機の一つは、西洋に遊学したことが挙げらます。
私が西洋を歩いてきて知ったことのひとつは、日本では一口に西洋西洋といっても、それはたいていアメリカ流といふほどのことでしかないといふこと、さらに、文学にしても、美術にしても、音楽にしても、明治以後西洋の影響下に育ってきたはといふものの、それはわづかに近代の、いや近く百年くらいの、西洋の歩みしか眼に入らぬ狭い視野からいはれているにすぎないといふことです。
「シェイクスピアについて」より。
シェイクスピアが活躍した時代は、16世紀末から、17世紀始めにかけてです。当に、氏はその時代に描かれた演劇を現代に甦らせようとしたわけです。
氏はシェイクスピアの魅力について、近代日本の文学(自然主義文学)と比較しています。
近代日本の文学は、自我が芽生えて、人生いかに生きるべきかを考える年頃になると、確かに無限の宝庫になる。しかし、それはこの世の現実の世界でしかない。比べて、シェイクスピアの描く世界はこの現実とは異なる、それ自体独立した世界なのだと。
シェイクスピアを楽しむには、自我が芽生える前の年頃が、人生いかに生きるべきかなど考えても仕方がない年頃(福田は40歳を過ぎる頃と述べています)が適切だとも言います。他人との摩擦、葛藤、つまり自我に気付き始めたらもう遅い。
シェイクスピアの登場人物は、近代日本文学の登場人物のように、人生如何に生きるべきか?など、みみっちいことは考えていません。何故なら、人生如何に生きるべきか?は、既に教会が決めてくれるからです。現代のように、Aの人生観、Bの人生観と、人間の数だけ人生観が存在していません。
描かれている登場人物は、キリスト教の掟を信じながらも、自らの生命力が、その掟を破ってしまうような、粋のいい人間です。
ハムレットのような悲劇であれば、そこには、自身の生命を完全に燃焼させる人間が描かれている。そして、最後には登場人物が与り知らぬ全体に滅ぼされていく。
まさに
生の終わりに必ず死が待っているのです。
人間の生と死を体感し、古い自分から、新しい自分へと脱皮をしたい。
実際にハムレットを見終わった後は、メロドラマの様な感傷的な涙ではなくて、自身の人生を力強く生き抜いた!!という、深い感動に包まれます。
ではでは。^-^