ハムレットが愛される理由
久しぶりにブログを更新します。
最近、福田恆存の肉声がユーチューブに挙がっていたので、聴いてみました。福田恆存を絶対視しているわけではないのですが、小林秀雄と並ぶ知識人と言われているだけあり、その言葉に耳を傾ける必要があると考えています。
ユーチューブに挙がっていた公演の中で、福田恆存はこう述べています。ハムレットは非常に近代的な人間である。実際にハムレットを観て、ハムレットになりきると大変その意味が分かります。
ある時は父親を亡くした王子として、ある時はホレイショーの友人として、ある時はオフィーリアの恋人として、ある時はローゼンクランツ、ギルデンスターンの幼友達として、旅役者をもてなす主人役として、そして時々、孤独になって自己の反省癖を責める。
様々な人間関係の中で自分の立ち位置を明確に読み取ることのできる能力。これこそ、ハムレットが近代人である理由です。
一言で言うと、ハムレットは演戯が上手いのです。福田恆存がハムレットを劇の中で行われた劇の批評と言ったのも分かります。ハムレットは劇の中の作劇者であり、同時に演戯者であります。
他人に見せる為の演技ではなくて、
自他を明確に分ける為の演戯。
近代人の生き様が描かれていることこそ、シェイクスピア作品の面白さの一つだと私は思っています。
ハムレットが愛される理由
久しぶりにブログを更新します。
最近、福田恆存の肉声がユーチューブに挙がっていたので、聴いてみました。福田恆存を絶対視しているわけではないのですが、小林秀雄と並ぶ知識人と言われているだけあり、その言葉に耳を傾ける必要があると考えています。
ユーチューブに挙がっていた公演の中で、福田恆存はこう述べています。ハムレットは非常に近代的な人間である。実際にハムレットを観て、ハムレットになりきって観劇すると、大変その意味が分かります。
ある時は父親を亡くした王子として、ある時はホレイショーの友人として、ある時はオフィーリアの恋人として、ある時はローゼンクランツ、ギルデンスターンの幼友達として、、瞬間瞬間に自分で自分の役割を創ることができる。この変わり身の速さ、様々な人間関係の
豊かで貧しい現代
何もかもが、虚しく観へる。
総てが、虚しく観へる。
世界は小綺麗で、清貧で、空っぽだ。表の世界は整っていて、人間臭さが無い。見せかけの美しさ。それが、今の日本である。無機的なのである。血が通った人間がいない。みな虚ろである。そんな時代に僕等は生まれた。
男女の愛さえも、ただのお洒落な道具になってしまった。僕等は、何処へゆくのか。何を見失ったのか。
有期的に繋がる人間同士の、愛情、友情、嫉妬、憎悪、それさえも見せかけの美しさに變へてしまうのか。
福田恆存と演劇
皆さん今晩わ。
第2回目のテーマは、
「福田恆存と演劇」です。
福田恆存と言えば、シェイクスピアの翻訳を仕事にした事で有名です。
自ら劇団を立ち上げ、現在でも「劇団昴」として存続しています。
今回は氏の著書、「私の演劇教室」の中から、考えるヒントを見つけていきましょう。
氏が、シェイクスピアの翻訳をし始めた動機の一つは、西洋に遊学したことが挙げらます。
私が西洋を歩いてきて知ったことのひとつは、日本では一口に西洋西洋といっても、それはたいていアメリカ流といふほどのことでしかないといふこと、さらに、文学にしても、美術にしても、音楽にしても、明治以後西洋の影響下に育ってきたはといふものの、それはわづかに近代の、いや近く百年くらいの、西洋の歩みしか眼に入らぬ狭い視野からいはれているにすぎないといふことです。
「シェイクスピアについて」より。
シェイクスピアが活躍した時代は、16世紀末から、17世紀始めにかけてです。当に、氏はその時代に描かれた演劇を現代に甦らせようとしたわけです。
氏はシェイクスピアの魅力について、近代日本の文学(自然主義文学)と比較しています。
近代日本の文学は、自我が芽生えて、人生いかに生きるべきかを考える年頃になると、確かに無限の宝庫になる。しかし、それはこの世の現実の世界でしかない。比べて、シェイクスピアの描く世界はこの現実とは異なる、それ自体独立した世界なのだと。
シェイクスピアを楽しむには、自我が芽生える前の年頃が、人生いかに生きるべきかなど考えても仕方がない年頃(福田は40歳を過ぎる頃と述べています)が適切だとも言います。他人との摩擦、葛藤、つまり自我に気付き始めたらもう遅い。
シェイクスピアの登場人物は、近代日本文学の登場人物のように、人生如何に生きるべきか?など、みみっちいことは考えていません。何故なら、人生如何に生きるべきか?は、既に教会が決めてくれるからです。現代のように、Aの人生観、Bの人生観と、人間の数だけ人生観が存在していません。
描かれている登場人物は、キリスト教の掟を信じながらも、自らの生命力が、その掟を破ってしまうような、粋のいい人間です。
ハムレットのような悲劇であれば、そこには、自身の生命を完全に燃焼させる人間が描かれている。そして、最後には登場人物が与り知らぬ全体に滅ぼされていく。
まさに
生の終わりに必ず死が待っているのです。
人間の生と死を体感し、古い自分から、新しい自分へと脱皮をしたい。
実際にハムレットを見終わった後は、メロドラマの様な感傷的な涙ではなくて、自身の人生を力強く生き抜いた!!という、深い感動に包まれます。
ではでは。^-^
福田恆存が観た日本の近代。
皆さん、今晩わ。
新しく、ブログを始めてみました。
主題は、藝術、文藝、文明論など。
第1回目は、福田恆存が観た近代。
まず、福田恆存って誰?という方に、簡単な紹介を…。
福田恆存 1912-1994 文藝批評家
主な著作に
「人間この劇的なるもの」
「藝術とは何か」
その他、シェイクスピアの翻訳家としても知られています。
大正から平成まで生きた福田恆存ですが、氏が観た日本は一体どんな風景だったのでしょうか?
氏の遺した「日本および日本人」、「日本人の思想的態度」、この二つの随筆を手がかりにしたいと思います。
「日本および日本人」」「日本人の思想的態度」、どちらも日本人と、西洋人の生き方の違いについて語っているのですが、何故この差異が重要なのか。
それは明治に入ってから、日本人は西洋人の生き方の背後にある文化を観ずに、ただ上っ面の文明のみを輸入してきたが、それが日本人を生きづらくしているんじゃないか?という問いがあったからです。
端的に言うと、明治以来日本人は西洋近代をそのまま西洋全体として捉えてそれを受容したが、それを道具として上手く使いこなせていますか?という話しです。
こうした問いに対してある人は言うでしょう。
明治に入って日本人はちゃんと近代化の波に乗り、日清、日露戦争には勝ち、世界の一等国として認められた。残念ながら、太平洋戦争には負けたが、戦後の焼け野原から、高度成長期を経て、又もや世界に恥じない国に成長したと。
確かにその人から見れば、それが明治以来の日本及び日本人の物語なのでしょう。が福田恆存が重きを置いたのは、世界の一等国にならないと西洋に負けると思い、必死に近代化をやってのけたはいいものの、基準を西洋においていては、結局いつまで経っても、日本及び日本人は、西洋に振り回されるだけですよ、それでいいの?という点です。
つまり西洋に勝った!負けた!と、一喜一憂している時点で、基準が西洋ですから、いつまでも落ち着きのない生活を送らなければならなくなる。
明治以前の日本人の生き方を、片端からやっつけて、なんでも西洋流にしてしまうのは、如何なものか。
氏はここに、二つの日本人の生き方が出来たと言います。
上手く時流に乗れたと思い込んでいる人間と、それに乗れない人間。
そして、時流に乗れた人間は時流に乗れない人間を馬鹿にして、馬鹿にされた方は、ますます自信を失っていく。そして、適応異常を起こすわけです。
明治に限らず、現代もそうですよね。親は職人や農業をさせるより、大学に行かせたがる。東大とか最近では、海外の大学でしょうか? とりあえず、大卒の方が進歩的で、職人や農民は遅れていると信じている。
が、氏はこう問います。
自分を進歩的な人間と思っている人間は、果たして西洋の基準から逃れているのか?否、結局、基準が自分の生き方から出てくるものじゃなくて、西洋もしくは、アメリカになっているんじゃないのか?
例えば、民主主義は大事だ!と思っている人に、では、民主主義は何故大事なの?と問いかけてみなさい。自信を持って答えらる人がどれだけいるか。といった具合に、兎も角、日本は遅れていると信じこんで自他の区別なく、西洋、(戦後はアメリカ)を無批判に取り入れることは辞めようよと言うわけです。
事実、氏の文章はより深い洞察、批判がなされています。また、西洋人の生き方の根幹にある、キリスト教についても書かれています。また、明治の日本人が、西洋近代を、西洋全体と思いこんだことも、仕方のないことだと、書いています。
が、明治以来かれこれ、約150年経っているわけです。そろそろ、落ち着いて過去を振り返って、足元を確認しても良い時期に来ているんじゃないでしょうか?
自身が伝えられることに限界があるので、興味を持たれた方は是非、福田恆存の遺した文章を読んでみて下さい。
ではでは^-^